ボランティア考

2020 東京五輪のボランティア募集はうまく進んでいるだろうか。それはともかく、社会的な関心喚起には成功したと思う。一体ボランティアは何かとかの問題をそれをきっかけに考えてみたことがある人が増えたのではないかと思う。

ではボランティアは何か?もし五輪のボランティア募集に問題があれば、何が問題の根本なのか?

ボランティアは外来語で、フランス語もしくはラテン語に語源がある。簡単に言うと、自らの自由意思をもとに喜んで何ことをする人を指す言葉である。これで明白になっただろう。義務労働(自由がない)でもなく、強制労働(自由がない)でもない。しかし、もし対価をもらう仕事と比べればどうだろう。自由契約をもとに労働すれば、自由がないとは言い難い。喜ぶか喜ばないかも人それぞれで、喜んで対価をもらう仕事をする人も必ずいる。

これまでの定義を参照すればそれは見事にボランティアに当てはまるが、なにか違和感が出るよね。

そこに金銭の授与が問題になる。これも実は今回の東京五輪と密接している。

人は何のために働くだろうか?

「そんなバカなことを聞かないでよ」と思う君、そこに「形式をこだわらず対価」がある。お金でもいいし、爽快感でもいいし、必要とされる感でもいいし、社会貢献感でもいい。その対価から喜びが感じられるなら、あなたにとって有効な対価になる。まとめていうと、「自分が満足できる有効な対価が支給されること」のために働くのだ。この点でいうと、金銭は「ありがとう」の声掛けと同じ力があるかもしれない。なぜ「かもしれない」だろうか。それは、金銭は量化可能のためだ。そして、人によって、「ありがとう」の価値も違う。金銭に違和感を感じるのは、とくにいわゆる凡人にとってバックグラウンドで金銭の複雑な社会的意味があるのではないか、と考える。

では、なぜ東京五輪のボランティア応募はそれほどの反対を募ったのか。「お金を出さない」、「やりがい搾取」の罵声を耳にしたことがあるだろう。

ボランティアの定義をもう一度見よう。「自らの自由意思」と「喜び」。

「喜び」は人によってかなり違うが、「自らの自由意思」も今度少し論証困難。

では、仮にその両方ともにあるとしたら、批判の声は止まるのか?止まらないだろう。そこには今度のボランティア応募の一番の大問題があると思う。

それは、「受け入れ側が自分の能力に相応しい感謝の意を表すつもりの無き」だ。少なくとも応募側の目線で見るとそうだった。

もし、あなたが福島にボランティアをしに行った。やる途中で、受け入れ先が大変お金持ちだということを知った。そして、あなたの帰りの日が来た。帰りの直前、相手は何もせず、「ありがとうね」と一言をあなたに言って、別れた。

それは今度の東京五輪だ。

ボランティアをする側にとって、満足できる対価が支払われたと思う。五輪でボランティアをするのは一生一度の体験かもしれない。珍しい体験でも決して違いない。でも、受け入れ先はあまりにも傲慢というか、良心がないというか、ボランティアの「喜び」だけをアピール(要求)して、自分の持つべき感謝の気持ちを完全に忘れというか、失った。

本当は 1000 円の時給がないと生活ができなくなるというわけではなくて、その意思表示の気持ちの喪失が今度の根本だ。

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