卒論を考える

大学学部を経験したことのある人は「卒論」を少なくとも聞いたことがあると思う。卒論の目的及び指導教員と学生との関係を廻る諸事項について考えたい。

まずは卒論の目的を考察したい。ここで、2つの仮説を立て、それぞれ考察したい。

仮説1:卒論の結果が目的。

学位授与の現場から、それが現在において割と正解というより現実だ。研究どころか、書く気がなくても、卒業する気さえ少しあれば何とか結果としての卒論が書かせられるのが現実ではないか。そもそもほとんどの場合、卒論は厳格な審査はなく、公表することもなく、指導教員一人が OK サインさえ出せば、いくらめちゃくちゃな卒論でも一応卒業はできる。

裏返せば、それが卒論の及第点は事実上非常に低いのだ。やる意欲のある学生は上を目指してもいいが、及第点だけを目指しても実務上問題ない。しかし、それが返って問題になる。なぜかというと、「卒論を書いた」こと自体は本来求められる能力の証明として全く役に立たなくなる。これ以上話をすると、大学教育の枠を超えて、国の教育政策全般の問題になる。

仮説2:卒論の作成過程が目的。

仮説1の議論のように、実務上結果としての文章が目的となっている。作成過程が卒論の評価に入るとしても、それが目的とは言えず、あくまであれば良きぐらいだ。しかし、学生の立場から考えれば、専門的な知識はともかく、少しでも何らかの能力を身につけたいのなら、作成過程こそが目的ではないか。博論なら話が少し変わるかもしれないが、卒論の場合、ほとんどは真理の探究より研究の初体験(研究ごっこ)がポイントだ。世の知恵に貢献するより、その過程から何らかのものを身につけるのを目指すのが現実的で実務的だ。

もちろん、何をもらいたいのは当人次第だ。


次は指導教員と学生との関係を考察したい。

上記仮説1のように、卒論の及第点は非常に低い。しかし、それはあくまで最終的に卒業できるか否かという観点で言っている。少しでもまともな指導教員ならば、本音ではもう少しで高いところに理想の及第点を設定しているのではないか。

これを踏まえて考えると、学生がもし最初から事実上の及第点を目指すと宣言するなら、コミュニケーションを取っていてちゃんとした理由があれば話が変わるが、指導教員からネガティブに思われるのも無理ではない。

では、ある程度理想の及第点を目指す学生ならどうだろうか。

大学は統一教育指針がなく、それぞれの先生が各自の判断で行動している。先生も当然人間であるから、すべて正しいのはあり得ない。どちらかというと指導する立場にいる経験豊富な相談相手と考えるのは適切ではないか。もちろん指導と言っても、必ずそれが一番いい指導方法には限らない。この状況下、仮説2にも言及したが、自分からあらかじめ目的をちゃんと明確にしないと、「教えないのか?」、「先生に聞いていいのかなぁ」、「先生は答えを知っているのでは?」、後々困惑する場面が次々とくる。逆に自分から目的が明確であれば、忖度したり恐れたりすることもなくなり、率直な議論もできると思う。

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